なんてね

芸大卒。何も表現していない。

3月11日の日記

 3月11日

きっかけ。震災は私にとってきっかけだった。7年前は高校2年生だった。死があまりにも近すぎた。

高校2年夏、近しい人を二人、自殺で失いかけた。ほぼ同時期だったが、彼らに接点はなかった。一人は部活の先輩で、詳細は今書けないけれど、原因はほぼ全て私にあったと今でも思っている。もう一人は隣の部活の後輩だった。学校で飛び降りを図る直前、私にメールをくれていたが、私はそれに気づくことができなかった。結局他の先輩が異変に気づいてとめに行ってくれた。それがなかったらと思うと今でもぞっとする。

結局二人とも、数回の自殺未遂の末、高校を辞めた。私は自分を責めた。特に先輩に関しては、自分が彼の人生を奪ったも同然だと思っていた。誰かを失うこと、死が怖かった。彼らが辛うじて生きていることが、せめてもの救いだった。

学校には行った。行かないとこの先ずっと登校しないことはなんとなく分かっていた。以前より人と話さなくなったし、授業中気分が悪くなってトイレにこもることもよくあった。特に国語の時間は、夏目漱石の「こころ」を読み解く授業ばかり、古典は文法の「自発」が「自殺」に聞こえて仕方なかったので、苦痛だった。秋から冬の間じゅう、私はずっとふさぎ込んでいた。

2011年3月11日は、ひとつ上の代の卒業式だった。 委員会の係で卒業式の受付を担当していた私は、入り口から入って来る親子の中に、いるはずのない先輩の姿を何度も見た。幻だと分かっていても、その度に息が止まった。

式が終わったあと、そう広くない部室に、4部活の仲のいい先輩と現役生メンバーで集まって別れを惜しんでいた。すっかり帰るタイミングを逃していた頃、地震が起きた。

東京は震度5強、電車は完全にとまり、私は帰宅難民となった。

学校は生徒の避難所として使えないとのことで、友だちの親の車やバスを乗り継ぎ、家に着いたのは日付を超えた頃だった。津波の被害で多くの命が奪われたと知ったのはそのときだった。

震災のあと、私は死について考えた。死ぬことは特別なことではない。誰にでも訪れるものだ。そんな当たり前のことを実感したのか、前より少し心が軽くなった。実感はうまく説明がつかなかった。ただ漠然と、死そのものは怖くないと納得した。

その後立て続けに4人ほど、遠い人が亡くなった。震災とは関係なく、自殺でもなかった。あまり話したこともなく、会ったこともない人も中にはいたけれど、死の知らせを聞いたときは心がざわついた。しかし以前ほど過敏ではなくなっていた。

幸い今日まで、近しい人を亡くしてはいない。身近な死をどれほど受け入れられるか、自分ではまだ分からないが、人は必ず死ぬということが納得できているから、前向きになれる日は少し早まると思う。自殺でない限りは。

彼らは生きていて、風の噂ではそれなりに元気でやっているようだ。

 

震災を忘れない、と毎年3月11日には色々なところで目にする。その言葉で、高校2年生の自分を思い出す。あの年に起こったこと、罪のこと、死について考えていたこと。3月11日は私にとってそれを思い出す日でもある。

「忘れない」ということが、克服や償いや自責とのバランスがとれなくて、随分長いこと悩んだ。忘れることがさらなる罪のようにも思えた。本当に忘れてないのか、昨日のように思い出せるのか、あのときあの人が何て言ったか一言一句思い出せるのか、そのときどう思ったのか。

7年経ってしまった。時間が経てば思い出せることの方が少ない。そう冷静に考えて感情を無理矢理沈めていた。大学に進学してから、あの年のことを毎日思い出すことが困難になった。社会人になってからは尚更のことだ。せめて一年に一回はしっかりと思い出そうと思う。

 

震災のことに絡めてつらつらと個人的なことばかりで申し訳ない。